今、何をするべきか?
去年の4月から毎日、花園大学の佐々木閑先生のyoutube講義を見てきた。今は阿含経の講義だか、その中で、僧侶は経典を読んでお金を貰うのではなく、清らかな生き方にお布施をして貰うのだという話があった。お経を読まなくては、お金にならない。しかし、お経を読み、生活を支えてくださる檀家さんも少ない。お寺の改築をした時、一軒35万円の負担があったという。それで、檀家をやめた家もあるらしい。当然だ。私でも引っ越すと思う。
仏教は、今、生きずらい人の解放のための処方箋だと。コロナ禍の中、生きずらさを感じた人は多かったと思う。私自身、とても苦しかった。友達に直に会いたくてたまらない。一人でいることも、仕事がないこともつらい。そんな時、仏教は役にたつ。なぜ役に立つのか?仏教は、あらゆる事象と距離を取り、中道を目指す。自然の中で、綺麗な花園の中で、ひととき社会と距離を取ってみる。あらゆる関係を捨て去り、自分の心や体さえも捨ててみる、そういう時間を持つ。たったそれだけで、気分が変わり、世界が変わる。ティータイムの様なものだ。仕事が、人生が本当の現実か、ティ--タイムが本当の現実か分からなくなる。ティータイムが、本当の現実でもいいじゃないかと思う仲間を作る、それが、仏教と寺だと思う。そう思うと、バイトなんか、見つけなくてもいい気もしますが、大乗の菩薩行を成すために、仕事も探そうと思う。21世紀には.21世紀の仏教があっても良いよね。
椿と蝋梅
お寺の裏庭には、椿と梅と蝋梅が満開です。少し切ったのを頂いたので、下手ですが活けてみました。写真はお庭に置いていた状態と玄関に活けてみた状態ですが、最初に置いていってくれた方の方が、センス良いみたいです。今日はお寺で前住職禅尼様の法事でした。近所の人が私を見にたくさん来られました。寺の住職も以前やっていた大学教授と同じ人気商売と言うのがちょっと分かりました。さて、明日は寺の掃除。いらないものといるものとの分別をしなければならないのと、歴史的発見もしなくてはなりません。何だか、ドキドキします。紙くず一つ檀家さんに聞かなければ分からないので、捨てられませんね。須弥壇裏の小部屋まで見るとしたら、1,2年では終らないかもしれません。
大安心できなくて❗️
お寺での生活始まりました。檀家さん達、みんな良い一人で、私の生活の心配してくれます。来月から、月参りもさせてもらえるらしくお経の練習にも身が入ります。住職と臨床宗教師を目指している私には、有りがたいことです。兎に角、1年僧堂に行って、2週間足りずに追い出されたことになってしまったので、割りきれないものはありますが、ひたすら考えないようにしています。兎に角、先に進もうと思います。親切にしていただいている檀家さんのためにも、何とかして住職資格を取りたいです。
コロナで、本山安居会がなくならないことを願いつつ、今できることをするだけです。5年前、有明の交差点で、突然発心して、順調だった仕事をやめ、3年経ちました。大体、住職になるまで、6年かかると言われています。今、ちょうど半ばと思い修行をやっていくしかありません。ちょっと嬉しかったのは、東北大学の臨床宗教師プログラムに入れたことです。こっちのご縁も広がれば良いのにね。
春が来た
長い春休みが終わり、3月13日に、岐阜県の山間の町の小さな庵に赴任?しました。本当は、修行年数が足らず、最初の師僧にも死なれ、大学の仕事も辞めてきたので、後に戻れず、先にも進めずの宙ぶらりんでした。宗門短大の先生に頼んで再び、師匠になって貰い、本山の研修会に行けるようにと、空き寺の守役に入りました。これから、寺を預かる僧侶としての仕事も覚えねばなりません。
もうひとつは、基の仕事と僧侶の仕事をミックスさせて、新たな仕事を作って行けないかとの思いもあります。欲張りな私ですが、密かに、臨床宗教師の仕事も考えています。
全ての発心は、病院で患者さんを看取っていた看護師時代に始まったからです。
60歳にして始めるチャレンジが、どこまでやれるか、なんだかワクワクします。とんでもない、波瀾万丈がまっているかもしれません。
千葉県那古船形の崖観音にて。
千葉県には、こんな素敵なお寺もあったのですね。しばらくぶりの天気で、ぶらっと出て来てしまいました。いよいよ、2週間で修行の世界に戻るのだと思うと、やはり生身の人間ですので、心が揺らぎます。と言っても、やる気は満々ですけどね。静かにその日を待ちたいと思います。